何が貧困問題の解決を妨げているのか?~札幌講演録⑤
札幌講演要旨の5回目(最終回)です。第1~4回はこちらです。
「孤独死」から「孤立死」へ、そして貧困拡大を見過ごした日本社会~札幌講演録①
生活保護基準の引き下げ
最後に、生活保護基準の問題についてお話しさせていただきます。
安倍政権は、すでに、昨年(2013年)の8月に第1弾の引き下げを行なっています。そして、今年の4月、来年の4月に、第2弾、第3弾の引き下げが予定されています。
生活保護基準が下がっても、生活保護利用者が困るだけで、自分にはあまり関係ないと思われる方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれませんが、これは、生活保護利用者だけではなく、低所得者、そして日本に暮らしている全ての人たちに影響がある制度改悪だと思っています。
生活保護の基準が下がると、まず第1に、生活保護を受けている人たちの生活状況が悪化します。特に、今回の基準切り下げというのは、ご夫婦と子供が2人以上いる世帯で、約10パーセントの引き下げが行われますので、これによって、結果的に、子どもの教育とか保育に影響が出てきます。私の知っている4人世帯のご家族でも、引き下げが行われた後、お父さん、お母さんが食べる物を減らして、本代など子どもの教育費に回しているというような状況があります。親が食べる物を減らすか、子どもの教育にかけるかという二者択一のような状況に追い込んでいくのは、本当にとんでもないことだと思っています。
基準引き下げの影響の広がり
同時に、基準が下がると、低年金の方とか、今まで制度を利用していた方の一部が生活保護から外れてしまうという問題が生じてしまいます。その結果、高齢者の方で、様々な公的な支援を受けられずに孤立してしまう方も出てきかねません。
そして最後に、生活保護基準は、この国における様々な低所得者対策の重要な目安になっています。そのために、生活保護基準が年々下げられることによって、例えば、地方税の非課税水準が連動して下がり、介護保険、国民健康保険の利用料とか保険料の減免基準も下がってしまう。
今、子どもの貧困も広がっていて、小学生、中学生の6人に一人が、就学援助という修学旅行費とか学用品代の補助を受けています。就学援助の基準は自治体によって違うのですが、だいたい、生活保護基準の1.0倍~1.3倍に設定されています。そうすると、生活保護基準が下がることによって、連動して、就学援助の所得制限が厳しくなる。
つまり、全国で157万人のお子さんたちがこの就学援助を受けていますけれども、生活保護基準がこのまま下がってしまいますと、その中から、数万人のお子さんたちが、この支援を受けられなくなります。
このように生活保護基準の引き下げは、生活保護世帯だけではなくて、低所得者全体に影響が出てくる。負担が増大するのです。
そのため、生活保護基準引き下げは、低所得者層だけをターゲットにした「増税」と同じ意味を持つことになります。生活保護基準は、「社会保障の岩盤」とも呼ばれますが、私たちの社会において「健康で文化的な最低限の生活」を営むうえで、「最低限、これだけ必要ですよ」というラインを示しています。そのラインを引き下げるということですから、それによって、この社会に住む全ての人たちの暮らしが、地盤沈下してしまうのです。
不服審査請求のすばらしい意義
生活保護基準が昨年(2013年)8月に引き下げられたことに対して、私も呼びかけ人の一人になりましたが、全国で引き下げに対する不服審査請求を行なうという運動が展開されました。その結果、全国で、1万人以上の生活保護利用者が立ち上がっています。この北海道でも1300人以上の方々が、この不服審査請求を行なったそうですが、これは本当にすばらしいことだなと思っています。
こうした動きは、生活保護利用者が自分たちの生活を守っていく、自分たちの権利を守っていくという意味を持っていますが、それと同時に、「社会全体の貧困をこれ以上拡大させない」「このラインから下に行かせない」という大きな力になっています。ぜひ、それぞれの地域で、こうした動きを応援していただければと思っています。
何が貧困問題の解決を妨げているのか?
私はいつもお話をさせていただいているのですけれども、貧困の問題、「何が貧困の問題を妨げているのか」ということを考えたときに、実は、一番問われているのは、私たち自身が、生活に困っている方、貧困状態に置かれている方々を、どう見ているのか、どう「まなざし」を向けているのかという点なのではないかと思っています。
2008年から2009年にかけて、「年越し派遣村」がありまして、私たちのNPOも全国から寄付をいただいて、大きな注目を浴びました。それは非常にありがたかったのですが、ただ、そのときのマスメディアの報道で気になっていたのは、「今までずっと真面目に働いていた人が派遣切りにあってかわいそうだ」と言うような論調が中心だったということでした。
「かわいそうだから救済しないといけない」という話だけになってしまうと、裏を返せば「かわいそうに見えない人は助けなくてもよい」ということになってしまいます。その「反転」が、起こってしまったのが、その2、3年後に起こった「生活保護バッシング」だったではないかと思っています。マスメディアが「かわいそうに見えない人」を焦点化することによって、「自己責任論」への逆戻りが行なわれたのです。
「かわいそうだから救済しないといけない」という「同情」から入ることは、問題への入り口としてはあって良いと私は思っているのですが、そこだけにとどまってしまうと、結局、「権利としての生活保護」、「権利としての社会保障」という考え方になかなか行き着かないんじゃないかなと思っています。かわいそうであろうと、かわいそうに見えなくても、どんな人でも、最低限度の生活を保障するという、というのが生活保護制度の趣旨であり、憲法25条の趣旨だと、改めて考えてみたい。そういう意味で、実は、貧困問題というのは、「あの人たちの問題」ではなくて、「貧困を見る私たち自身の問題」、「私たち自身のまなざしの問題」ではないか、ということを皆さんに考えていただければと思っています。(了)
2014年6月7日