「孤独死」から「孤立死」へ、そして貧困拡大を見過ごした日本社会~札幌講演録①
※2014年2月1日(土)に札幌市教育文化会館で開催された講演会「どうなるか?生活保護『改革』-札幌白石姉妹孤立死から2年-」(主催:生活保護制度を良くする会、反貧困ネット北海道)の講演要旨を数回に分けて掲載します。
ご紹介にあずかりました、稲葉です。本日はよろしくお願いいたします。 札幌市白石区で、姉妹が孤立死をされて2年が経ちました。この場をお借りして、お二人のご冥福をお祈りするとともに、こうした悲劇を忘れずに、今回の集会を企画された皆さんに、心から敬意を表したいと思っております。
バブル崩壊後の新宿の状況
私は、1994年から、東京の新宿を中心に、当初は路上生活者の方々の支援活動、その後は、路上生活者に限らず幅広い生活困窮者の支援活動に関わってまいりました。 ちょうど今日は2月1日ですけれども、私が当初、新宿の路上生活者のコミュニティ、通称「新宿ダンボール村」に初めて足を踏み入れたのが、今からちょうど20年前の1994年の2月になります。 当時私は、大学院生で、「ホームレス」と言われる人たちに出会ったのですけれども、最初にびっくりしたことは、路上でバタバタと人が亡くなっているという現実でした。
当時は、バブル経済が崩壊して、長期の不況、現在まで続く「失われた20年」と言われるような不況に突入した最初の時期でした。
そして、真っ先に、日雇いの建築現場で働いてこられた方、新宿など各地の高層ビルの建築などに従事してきた日雇いのおじさんたちが、真っ先に、野宿に至ったという現実がありました。 何人もの路上生活者の方々のお話を聞いたんですけれども、中には、「あっちのビルも、こっちのビルも俺が造ったんだ」、という話をされている方もいらっしゃいました。自分が建築に従事した高層ビルの軒下で、路上生活をしていることが珍しくないという状況がありました。
そうしたおじさんたちの話というのは非常に楽しかったのですけれども、夜、特に、こうした寒い日の夜に、野宿の人たちに声をかけて歩くと、凍死寸前、餓死寸前という方に出会うということがしょっちゅうありました。
何日もごはん食べてないとか、冬の寒いときに毛布一枚で凍えている、というような方にお会いして、そのたびに、救急車を呼んで搬送してもらうのですが、次の日に病院にお見舞いに行ったら、もう亡くなられている、ということが何度もあったことを覚えています。 そうした路上死は病名がつかない場合も多いのです。例えば、「低体温」とか、「低栄養」という病名、つまり、凍死、餓死で亡くなる方も何人もお会いしました。
マスメディアの冷たい対応
当時、新宿に、多くはなかったのですけれども、マスメディア、新聞やテレビの記者たちの方が取材に来ることがありました。私はその人たちに対して、「ここで人が亡くなっているんだ」「その状況をきちんと報道してほしい」ということを何度もお願いしました。
ただ、当時は今以上に、生活に困窮している方、特に、ホームレスの方に対する差別や偏見というものが非常に強くて、ともすれば、「あの人たちは好きでやっている」という見方をされていました。そのため、良心的な新聞記者やニュースのレポーターの方がホームレス問題を取り上げようとしても、上層部がなかなか、「うん」と言ってくれないという状況がありました。
よく議論をしていた、ある記者の方は、本当にご本人もつらそうにおっしゃっていたのですが、「家のある人が餓死すればニュース価値があるということになるんだけれども、家のない人が餓死しても、なかなか、ニュース価値があることにならないんですよ。」と心情を吐露されていたのを覚えています。 私はそのとき、家のない人たち、住まいのないホームレスの人たちが、路上で餓死や凍死をしていく状況を放置していれば、いつか私たちの社会は、家のある人も次々と倒れて亡くなっていく、孤立死していく、そういう社会になっていくのではないかと思ったことを覚えています。
「孤独死」から「孤立死」へ
その後、私たちはずっと貧困の現場で支援活動をしてきましたけれども、貧困の拡大のスピードは徐々に拡大し、今まさに、家のある人たちも餓死する、凍死するという状況が出てきています。
一昨年(2012年)、札幌の姉妹孤立死事件を皮切りに、全国で、餓死、孤立死が相次ぎました。特徴的だったのは、一人世帯の「孤独死」だけではなくて、二人以上の複数世帯の「孤立死」が出てきたということです。
「孤独死」という言葉が、いつからか、「孤立死」という言葉に変わったことに気づいている方もいるかもしれません。「孤独死」というのは、特に、ご高齢の単身者が倒れて亡くなるのが「孤独死」だったわけですけれども、札幌の白石区のケースでは、40代の姉妹の方がお二人とも亡くなられた。あるいは、各地で、「老老介護」をされている親子の方、60~70代のお子さんが倒れて、その後、80~90代の親御さんが衰弱して亡くなる、そのため、二人が亡くなったまま発見されるという事件が相次ぎまして、「孤立死」という言葉が、新たに生まれました。
グラフから見える餓死者数増加
その頃、産経新聞に、こうした記事が載りました。実は厚生労働省で、毎年、人口動態統計という統計を取っています。1年間に、日本国内で、どれぐらいの方々が出生して、どれぐらいの方々が亡くなられているかを調べており、亡くなられている方の死因別統計も出ています。 その死因別の統計の中で、死因が「食糧の不足」、つまり、ご飯が食べられなくて亡くなった方、つまり餓死者数をピックアップして作ったのがこのグラフになります。
ただ、気をつけていただきたいのは、私自身、餓死された方々を路上でみてきましたけれども、必ずしも、すべての方の死因が「食糧の不足」になっているわけではない、ということです。ご飯を何日も食べてない状況に置かれている方の中には、内臓疾患などを患っている方も多く、死因に別の疾患名がつくこともあります。
そのため、このグラフ自体が氷山の一角だと見ていただければいいかと思うのですが、それでも、明らかな傾向というものが見えるかと思います。 このグラフは、1981年から2010年までの時系列の変化を表していますが、前半と後半で、これは「本当に同じ国の社会なのか」という変化が起こっています。
1981年から1994年まで、日本国内で餓死される方の数は、平均で17.6人でした。非常に少ない数だったわけです。ところが、1995年から急増します。
1995年というのは、ちょうど私が新宿で路上生活者支援を始めた次の年で、全国的に、路上生活者の数が急増した時期になります。その年、全国の餓死者数は一気に、前年の3倍近い58人になります。そして、96年には81人という数を記録します。
その後も、非常に高い数字を記録し続けまして、実は、日本の社会で、一番、年間餓死者数が多かったのは、2003年の93人ということになります。 この頃は、思い出していただければと思いますが、ちょうど、小泉さんの時代で、「日本の景気が良くなってきたぞ」といわれていた時期で、ちょうど、今と似たような時期になります。
この頃から、日本は、「いざなぎ越え」と言われる戦後最長の好景気、数字の上では、非常に長期の景気回復期に入ったと言われています。しかし実は、その時期に一番、餓死者数が多かった。このことは、今、「アベノミクス」と言われる経済政策を考える上でも、非常に象徴的な出来事ではないかと思っています。
その後、餓死者数は減少傾向になっていきます。特に2006年頃から減ってきているのですが、これは、おそらく全国各地で、私たち〈もやい〉を含めて様々な支援団体や法律家のグループが、生活保護の申請支援を行う、申請に窓口まで付き添って「水際作戦」を防ぐという活動が広がってきた結果、餓死に至らず生活保護につながる方が増えてきた結果ではないかと推測しています。
貧困拡大を見過ごした日本社会、出遅れた貧困対策
この30年間のグラフの中で、後半についてみますと、1995年以降、一年間で餓死されている方は、平均で、67.75人ということですから、実に、6日、7日に一人の割合で、日本国内のどこかで、餓死者が出ている、統計に出てこない方も含めれば、もっともっと多くの方が餓死しているというのが、今の日本の状況です。
このグラフを見る度に、私は、本当に、忸怩たる思いなってしまうのですけれども、私たちが、ちょうど20年前から「貧困が広がってきている」、特に「ホームレスの人たちの命が奪われている」ということを、折に触れ、色々なところで言ってきたにもかかわらず、なかなか、そのことが、社会全体に伝わらなかった。その結果、これだけ貧困が拡大してしまった。
この餓死者数の統計自体、当時から、マスメディアが注目していれば、もっと早い段階で報道がなされたはずで、そうであれば、もっともっと早い段階で貧困対策がなされていたかもしれない、私たちの社会は、この貧困の拡大に気づくのに、十数年以上遅れてしまった。本当にスタートラインから出遅れてしまったと、このグラフを見るたびに感じています。
2014年6月1日