対談・インタビュー

もやい理事長交代記念 対談×大西連(前編)

対談・インタビュー

退任と就任のごあいさつ

●稲葉
本日(2014年7月1日)、NPO法人自立生活サポートセンター・もやいの理事会が開かれまして、そこの場で理事長が交代することが決まりました。
私は、もやいがNPO法人になってから11年間理事長を務めてきたのですけれども、このたび退任することになりました。
新理事長は大西連さんになりました。そこで理事長交代を記念して、新旧理事長による対談を始めたいと思います。
●大西
よろしくお願いします。
●稲葉
よろしくお願いします。まず自己紹介をお願いします。
●大西
みなさま、初めましての方は初めまして。お世話になっている方は、お世話になっております。新理事長に就任しました大西連と申します。
僕がもやいに本格的に関わりだしたのは、多分震災のちょっと前くらいからですね。もやいのセミナーに初めて参加したのが2010年の秋ぐらい、いわゆる「年越し派遣村後」で、担当は稲葉さんでした。
●稲葉
そうだっけ?
●大西
そうですよ。最前列で悪口言いながら見てたんですけど(笑)con0701_001

大西連の「きっかけ」

●大西
もともと、その前から新宿の炊き出しに行ってて、そこで稲葉さんと一緒に活動していました。
ただ火曜日は当時アルバイトとかぶっていて、(火曜日の)もやいには参加できなかったんですね。でも、同じく新宿で炊き出しをしていた人から「一回、もやいのセミナーに行こう。稲葉さんの回だから」と誘われたんですよ。
セミナー当日は雨の日だったんですけど、僕はたどり着けなくて辺りをうろうろして(笑)
「これはもう(開始時間の)7時に間に合うのは無理だ」と、一旦は諦めかけたんですが、7時半ぐらいになってようやくたどり着いたんです。それが一番最初です。
●稲葉
そもそも貧困問題や社会的な活動に関わるようになったきっかけは何?
●大西
貧困問題に関していえば、新宿の炊き出しに行ったのがきっかけです。
じゃあなんで行ったかっていうと、貧困問題に興味があったっていうわけではなくて(笑)。
●稲葉
(笑)
●大西
もちろん社会問題として貧困問題というのがあって、それは大事だよね、解決しなければならない課題だな、とは思っていたんですが、特に自分がコミットするとはまったく思っていなくて。
ただ、そういう中で人に誘われて、ふらっと新宿の炊き出しに行ったんです。当時はリーマンショック後だから、400人くらい(炊き出しに)並んでいたのかな?
●稲葉
うん。2010年頃だと300人から400人くらいかな。その前年はもっと多かったですね。
●大西
やっぱり自分の中にもっているイメージってあるじゃないですか。
たとえば、ホームレスの人って、お風呂に入っていなくて、空き缶を集めていて、ちょっと話しかけるの怖そうだな、みたいな。でも、実際は必ずしもそうじゃない人たちがたくさん並んでいた。若い人もいれば、数は少ないが女性がいたり、車いすの人がいたり。自分の持っていたイメージが裏切られたんですね。
また、メディア等では「年越し派遣村」とか知っていたけれども、実際どういった人たちが関わっていて、どういう人たちが相談に来ていて、実際どうやって過ごしているのか、っていうことも知らなかった。
それまでは、「ホームレス」というと「駅で寝てるのかな」「仕事してないのかな」「なんかよくわかんないな」っていうレベルの理解だったのが、実際にお会いして、お話をして、その人のストーリーを聞いてすごく身近に感じたんです。「ああ、親戚のおじさんにこういう人いてもおかしくない」と。
●稲葉
一人ひとりの顔や人生が見えてきたんだね。
●大西
なので、「ホームレス」の人たちについて、彼ら・彼女らをとりまく状況や社会環境について、興味をもつようになりました。自分がそこですごく恵まれていたな、と思うのは、単純に毎週炊き出しに行くだけで終わったのではなくて「これは何だろう?」とか「これは不思議だな?」ということを聞く相手として稲葉さんがいた、ということです。このことがいまの自分につながっているし、非常に大きかったですね。
●稲葉
ほお。
●大西
最初話しかけたらこうやって(背中を仰け反る)反ってて、すごい嫌がられていたのを覚えているんですけど、覚えてますか?
●稲葉
いやいやいや(笑)聞かれたことはちゃんと答えてましたよ(笑)
●大西
いろいろ質問していたのは?
●稲葉
そんなこともあったような気もする。
●大西
あの場を僕がすごく面白いと感じたのは、当事者の人も一緒に炊き出しや夜回りに参加したり、支援団体の人もいたり、それからいわゆる専門職の人もいたりとか、様々な立場の人が同じ活動を同じ場所で同じ目的のためにやっている、というところでした。
ただ、一方で自分も炊き出しと夜回りをやっていて「あれ? どうしてこの人たちはずっと路上にいるんだろう?」と疑問に思ったんですね。
これだけ毎週「相談ないですか?」「病気ないですか?」「役所いきませんか?」って支援しているのに、なんでホームレスの問題というのは解決していないんだろうかと。もちろん解決していない理由がたくさんあることは、あとで解ったんですが。
当初は、そういうことわからないものですから、とにかく自分の目で見て、耳で聞いて、肌で感じたかった。それで、いわゆる「福祉行動」という、新宿では月曜日に行っていた生活保護の申請同行に行ってみたいと稲葉さんに言ったんです。そうしたら、すごく嫌がられたんです、最初。
●稲葉
そうだっけ?
●大西
「えー、誰も来ないよ」って言って(笑)
●稲葉
(笑)
●大西
「来ても別に何もないよー」とか言って。
●稲葉
(笑いながら)そうだっけ?以前と違って、その頃は相談があったり、なかったりだったんだよね。
●大西
「なんだ、このサポーティブじゃない感じは」とか思ってました。
●稲葉
いやいやいや(笑)
●大西
でも、勇気をもって参加したら……いや、役所の窓口はこんな冷たいんだなと。
役所の窓口では、ホームレスの人が「人」として見なされていなかったんですね。宿がなくて足が痛いって言っているのに、病院には行かせるけど、支援はそこまでで路上に帰したり。
●稲葉
そうですね。それでも90年代に比べたら役所の対応は改善していて、昔は病院にも行かせてくれないということがありました。
●大西
最初は僕も熱いハートを持っているから(笑)「これはおかしいんじゃないか」と思ったりもしたんだけれど……。でも、関わっていくなかで路上の人たちが抱えている悩みや想い、役所側の理由や対応出来ない事情、あるいは本当は出来るのにやっていないことなど、いろんなことを知るようになりました。知ったというより、経験したり体感した、と言った方がいいかも知れません。
それで、これはいわゆるミクロ的な問題を越えて、もっと大きな社会構造の問題として考えなきゃいけないな、ということを思うようになりました。
貧困問題にコミットしなければと。この活動に関わるようになったきっかけです。con0701_002

もやいに来た頃

●稲葉
その後、2011年に震災があったことで、それまでもやいの中核を担っていたスタッフが2名、東北の被災地での支援活動に入っていくということがありました。その穴を埋めるような形で大西さんはめきめきと頭角を現したわけですが。
●大西
あれ、覚えてないんですか? 僕がもやいに来たのは稲葉さんに誘われたからですよ。
●稲葉
そうだっけ?
●大西
あ、ほら覚えていない(笑) あの震災後に稲葉さんに……
●稲葉
あ、そうそう。
震災の直後に土曜日のサロンをどうしようかという話があり、さすがに3月12日(土)はお休みにしたんですけど、その次の開催日(3月19日)はどうしようかと議論になったんです。
福島第一原発の事故も起こり、東京も安全かどうか解らないという状況の中で、通常のサロンという形では出来ないけれども、不安に思っている人や困っている人もいるだろうから、集まれる人は集まろうという話になったんですね。
特にあの時はスーパーマーケットやコンビニから商品がなくなったりして、食糧を買えなくて困っている人もたくさんいたので、こもれび莊を一日開放して、缶詰などの備蓄してあった食糧を来た人に配布したんですよね。
その時に声をかけた気がする。
●大西
そう、人足りないから手伝って、って言われたんです。で、手伝ったんですけど。
僕もちょうどその時、反貧困ネットワークとライフリンクと共同で自殺対策のプロジェクトがあって……
●稲葉
年度末の集中キャンペーンですね。
●大西
そうです。
3月は自殺対策強化月間で、僕は冊子を作ったりとかいろいろやってたんですけど、それが全部流れたんですね。だからすごく時間があったんです。
それこそ震災後だし、世の中どうなっちゃうんだろうなとか、そういう迷いもあったんですけど……。でもやれることはやろうと思って、もやいへ手伝いに行ったんです。
●稲葉
すばらしい。でも、震災でスケジュールが白紙になったのがきっかけになった、というのも不思議だね。
●大西
そこで稲葉さんに「火曜日来た方がいいですか?」と尋ねたら、「是非来て下さい」と。
それで毎週火曜日に来るようになった。
覚えてます?
●稲葉
………(笑)
●大西
あ、覚えてないな、この顔は。
●稲葉
覚えてる覚えてる(笑)
それで、いつからスタッフになったんだっけ?
●大西
スタッフになったのは、1年後? 2012年ですね。
●稲葉
そうそう。1年間ボランティアで生活相談をしていて。
●大西
2012年の夏ぐらいに、うてつさん(うてつあきこさん:もやいの当時のスタッフ)に誘われて、もやいのデータチームのアルバイトを始めたんです。
●稲葉
ああ、なるほどなるほど。
●大西
もやいのデータチームは、生活相談に来られた方のデータ入力と分析をしていたのですが、生活相談に携わっている人にも参加してほしいということで。
その時期は週4日とか5日とかもやいに来ていたという。
●稲葉
スタッフになってから入居支援の家庭訪問とかをやってたよね。
●大西
そうそうそう。生活相談と入居支援を両方やっていました。
●稲葉
それで、いろいろ見えてくるものがあったんじゃないの?
●大西
そうですね。というか、実は個人的に2010年・2011年で、かなり相談を受けてたんです。
新宿での路上でもそうだし、他の団体とかいろんなところで。
申請同行は年間100件以上、自分でもよくわからないくらい行ってたし、携帯電話の番号が路上に出回っていて知らない人から電話が来たり、個人的にアパート入居の際の緊急連絡先も受けたりして。
そういうことがあって、個人で受けているときりがないな、受けきれないな、ということは少し感じていたんです。
●稲葉
抱え込みだったのね。誰でもそういう時期はあるよね。
●大西
抱え込みって言われると嫌だなぁ。まあ、炊き出しをやっていた頃っていうのは、その入り口の部分でいっぱいいっぱいじゃないですか。
けれど実際に、一度支援につながった人がまた路上に戻ったりとか、せっかくアパートに入っても地域の中で孤立していたり、借金のことで困ってもこちらに相談してくれずに失踪してしまったりとか、そういうことが起きてしまう。
いわゆる入り口の向こう側、その後の生活をどう支え続けるかとか、どう維持するためのお手伝いが出来るかっていうことが、中長期的に見てもすごく大事だな、と改めて思ったんです。
あとは支援の難しさというか、その人の人生で考えたときに、その日その時という「点」で関わる以上にどう関わっていけるか。それらはすごく、入居支援事業をやって感じましたね。
あと、不動産の知識がついた。本当に契約条項とか特約とか、基本的な書式が揃っていないものがたくさんあるし、不当に住環境の悪い物件もあったり。
●稲葉
そうだね。なんとか路上生活を抜け出して、施設やアパートに移れたとしても、そこにはまた新たな課題がある、というのはもやいの活動の原点ですからね。
●大西
すごく生活に困って、やっと役所に相談に行って、なんとか支援に繋がった先で、複数人部屋のシェルターに入れられる。
なんとかアパート入りたい人が頑張って頑張って、やっとアパート入るんだけど、そこが風呂なしだったりとかトイレ共同だったり。
得られる情報が少ない人、自分でやることが難しい人ほど、過酷な環境に居ざるをえない。もしくは過酷な環境にいないと支援を受け続けられない。
そんな状況をすごく感じましたね。これはおかしいだろうと。
稲葉さんもその辺は感じていると思うんですけど。(後編に続く:7月7日公開予定)con0701_003

湯浅誠×稲葉剛対談(後編)

対談・インタビュー

マイノリティの声をどう伝えるか

20140514121209
稲葉:はたから見てると、大学院時代の湯浅誠に戻っている気がする。政治思想史の研究をしていた湯浅誠の問題意識がここにきて出てきていて、路上やって貧困やって、という経験っていうのがどこにどう生かされているのか正直よく分からない所があるわけ。例えば、僕の場合は「反貧困」っていうより「反差別」という意識がとても強いので、野宿者差別に対する怒りというのが根本にある。この年末年始にも渋谷の宮下公園で強制排除があったりしたけど、この手の問題はなかなかマジョリティの側は分かってくれない。以前の君の話で、すごく印象的で覚えているのは、神戸の震災の時に避難所から野宿の人たちが排除されたという話に君がすごく怒って、今度東京で震災があったら…。
湯浅:野宿の人たち専用の炊き出しをしようと。言っていたね。若気の至りです。
稲葉:逆に住まいのない人だけの避難所を作って、住まいのある人は排除するんだって言っていて。まぁ、冗談だけど、マイノリティに対する差別への怒りみたいなものが原動力としてあったんだけど、今はそのむしろマジョリティ側に声を掛けていく反面、「もともとの現場で培ってきた怒りはどこへ行ったの?」って気がするわけ。
湯浅:それは、さみしい感じなの?
稲葉:寂しいっていうか、「どう思ってんのかな」と思って。
湯浅:渋谷の排除の話は、この間、ラジオの番組で取り上げたんだよね。そこで話す話は、やっぱり言い方に工夫が必要。そうでないと、結局発信することはできても伝える(届ける)ことができない。
稲葉:そういう問題自体にコミットしないっていう姿勢に見えたのね。それは生活保護の問題も含めてなんだけど。もちろん、今の世の中、テレビに出るリベラルな知識人は必要なんだけど、それを「君がやるの?今までの経験はどうなったの?」っていう気は正直あるよ。
湯浅:私は今まで、イメージで言うと、レフトのファールグラウンドにいた。それが今、できるかぎりセンターに寄ろうと努力している。それが納得できないとか、何となく合点できないとか、いろんな人がいるとは思う。でも、それは常にあるんだよね。もやいを始めたときは、路上じゃなくアパートに行ける人たちを相手にするのかと言われ、派遣村やった時にはホームレスじゃなくて派遣切りされた人を相手にするのかと言われ、参与やった時には運動でなくて政府に関わるのかと言われ、何かやれば常にそういうリアクションはある。
稲葉:ただ、派遣村の時は開村時に「ここは派遣切りされた人ばかりじゃなくて、もともと路上だった人も含めて支援するんだ」と宣言したわけでしょ。
湯浅:それは君の耳にそれが届いたってだけなんだよ。そうじゃないところで判断している人はいる。
20140514121202

社会運動とソーシャルビジネス

稲葉:マジョリティの人たちにアピールをする際に、「提言型の活動や社会的な企業こそが社会を変える活動のメインだ」と、軸がそっちに寄ってしまうことに違和感がある。社会運動として抵抗するとか、反対するとかっていうのは古くて、「今やソーシャルビジネスですよ。スマートにやりましょう」という時代の潮流があるわけじゃない? 私はどちらも必要だと思っているし、ソーシャルビジネス系の人とも付き合いがある。だけれども、「こっちはダサくて新しいのはこっちだ」みたいな風潮自体に、君が乗っかっているのは「それでいいの? それが君の役割なの?」という気はするけどね。
湯浅:いま話を聞いていて、稲葉には、湯浅はこういうふうにあるべきで、そこからずれているのはおかしいんじゃないか、という違和感があるように感じた。だけど、私には私の経験とそこから出てきた問題意識があるので、こうあるべきと言われても困ってしまう。
稲葉:活動家はやっぱり現場の視点を忘れてはならないと思っている。生活保護の基準が下がれば、〈もやい〉でアパートの保証人を引き受けた人がエアコン代を払えなくなって、熱中症で倒れてしまう。そういうリアルな現場が活動の原点なわけね。僕はそこからものを言ってるわけだし、そこからものを言っていきたいと思っている。
20140514121213

湯浅:それはまったく問題ないし、共感する。ただし、同じ起点を持ちながらも、どう言うかという方法論は多様にありえる。ソーシャルビジネスの手法を使う人もいるだろうし、いやそうじゃないと言う人もいるだろう。稲葉が言ったように両方必要だというのであれば、理解の広がりを追求する中でいろんな言い方とかやり方があっていいんじゃないだろうか。
稲葉:いまいち、どこに向かってるのか、わからないんだよね。
湯浅:もう少し長い目で見ていてもらえるとうれしいです(笑)。

(2014年1月14日、もやい事務所にて)

湯浅誠との対談(前編)

対談・インタビュー

〈もやい〉を創設した二人の活動家、湯浅誠と稲葉剛。稲葉は理事長として〈もやい〉を13 年間まとめ続け、湯浅は〈もやい〉を飛び出して、活動の幅を多彩に広げて今に至ります。
とはいえ、どちらも気にかけるのは、貧困問題をどう世の中に訴えていくか。『おもやい通信』通算50 号を記念して、二人の対談が実現しました。

20140514120318

「イメチェン」のこと

稲葉:まずは、湯浅誠くんが昨年イメチェンした理由について教えてもらえますか。
湯浅:軽い話のようで、結構真面目な話になる。私自身、これまでいろんな活動をしてきた。〈もやい〉もあったし、本も書いたし、テレビも出たし、年越し派遣村もやったし、内閣府参与もやった。その中で、理解してくれる人は増えたと思う。でも、それは世の中全体から見ればごく一部にすぎないということに、内閣府参与として公的政策を作ると中でぶつかった。民間の活動は、基本的に賛同してくれる人たちでやるけど、政策は反対する人の税金も使うから、本当の意味で世論の全体にぶつかる。そこで限界を感じたわけです。「自分で思いつくことは結構形にしてきたけど、それではまったく足りない」と。
そこで、自分で思いつく事はやってきたので、逆に、自分に思いつかないことをやってみようと思った。それで、今までの活動では出会わなかった異分野の人たちと積極的に会うようにしたら、「あんた、いろいろ言うんだったら、まず自分の恰好から変えてみたら?」っていう人がいた。まったく考えたこともなかったので、「じゃあ、それ採用」と。
稲葉:で、眼鏡変えたの?
湯浅:そう。眼鏡も変え、服も変え、靴も変え、鞄も変え、すべて変えた。服は全部、スタイリストの人が買ってくれたのを着ている。
稲葉:でも、微妙に戻ってるでしょ。
湯浅:そうかな? 戻ってないと思うけど。
稲葉:いやいや。去年、急に変えたばかりの時のイメージから、その後また元に戻りつつある。「ああ、整いきれてないな」という感じが…。
湯浅:そうなんだ・・・。
稲葉:君、もともと毎日、お風呂入ってなかったでしょ?
湯浅:お風呂は今でも毎日は入ってません。(会場大爆笑)
稲葉:だからさ、戻ってるなっていうのは、テレビ見てて、「あー、相変わらず髪がぺったんこだな、風呂入ってないな」と。
湯浅:あー、なるほど。イメチェンが不徹底であると。それはもう大切なアドバイスとして受け止めておきます。

20140514121152

「現場」はどこにあるのか?

稲葉:(眺めまわしながら)うーん。で、採用して何やるの? それが良くわからないんだよね。やっぱり現場のこだわりってあるじゃない? 君が2002 年に渋谷の「のじれん」※を辞めた時に、路上の野宿者支援の現場から離れることに対する悲壮感に陥っていて、それに対して僕がメールをしたの、覚えてる?
(※のじれん:東京都渋谷区で活動する、野宿者問題の当事者団体。炊き出し、夜回り、医療福祉相談等を行っている)
湯浅:すみません。覚えてません。
稲葉:覚えとけよ(笑)。「別に路上だけが現場じゃない。〈もやい〉だって、ある意味、現場になり得るんだ」って。当時、〈もやい〉は社会的にそんなに注目されていなかったし、
今のように生活に困っている人たちがたくさん相談に来るっていう状況は想定してなかった。でも、「路上だけが現場じゃない! 〈もやい〉だって現場になりうるんだ」とメールを送ったわけですよ。それが、結果としてそうなったわけじゃん。〈もやい〉が現場となって、それから更に派遣村や内閣府参与の話があったわけだけど、それから先の湯浅君の動きが正直よく分かんないなって感じている。イメチェンを見て、〈もやい〉のスタッフの中にも「もう貧困からこの人は遠ざかってしまったんだ」って、ある意味、象徴的な出来事のように受け止めた人もいたんだよ。

20140514121157
湯浅:そういう受け止め方をした人がいるということは、知っている。
稲葉:貧困の現場から距離が離れてしまったと感じた人は多い。もちろん、貧困だけが現場じゃないんだけど。
湯浅:一つは、何をやっていても「社会の当事者」ということから離れられないということがある。その意味では社会が現場です。
あともう一つは、〈もやい〉の役割は変わりなくあっていいし、あるべきだと思う。私は「活動家は一人三役だ」と言ってきた。対個人の対人支援と、対社会的な世論形成と、政治的な打ち込みと。人によって、重点の置き方はさまざまでいい。得手不得手もあるし。ただ、どんな配分でやるにしても、3つの次元全体を意識することが大事だと思う。
私自身はいま、社会的に、たとえば活動ではなかなか出会わないビジネスセクターの人たちだとか、市民活動の外側にいる人たちにアプローチしようとしている。そのことだけが唯一重要とは思っていない。ただ、それを自分の役割として引き受けたにすぎない。だから、他のことが意味がないと思っているわけではない。
稲葉:それは分かっているんだけど、自分の中では整合性は取れてるの?
湯浅:取れているかどうかというレベルではなく、必然と感じている。政策を自分でつくることがなければ、そう思わなかった可能性が高いけど、すでに経験してしまった。経験してしまったことを「なかった」ことにはできない。

< 1 2