新宿ダンボール村の歴史

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新宿駅西口地下広場のイベントコーナー。四方をガラス扉によって囲まれた470㎡の空間は、東京都道路整備保全公社によって一日126万円の使用料で貸し出され、連日、各地の物産展や即売会が開催されている。夜間はガラス扉が施錠され、誰も立ち入ることがないよう警備員が巡回を続けている。

JRと私鉄各駅をあわせた新宿駅の一日の乗降客数は約326万人(2011年)にのぼり、ギネスブックによって世界一と認定されている。その中のかなりの数の人々が連日、このイベントコーナーに立ち寄ったり、前を通り過ぎたりしているわけだが、かつてここに「ダンボール村」と呼ばれるコミュニティがあり、二百人近い人々の暮らしが営まれていたことを記憶に留めている人はどれだけいるだろうか。

通常、人々が集い、暮らすコミュニティは自然発生的に生まれ、消滅する時も自然に消えていく。しかし、かつてここに存在した「村」の生まれた日と亡くなった日を私ははっきりと言うことができる。それはまるで一人の人間であるかのようだ。

新宿西口地下広場ダンボール村は、1996年1月24日に生まれ、1998年2月7日に亡くなった。わずか二年余りの「いのち」であった。

私たち、新宿で路上生活者支援に関わるボランティアは、西口地下広場のダンボール村を「第二期ダンボール村」と呼んでいた。また、現在、イベントコーナーになっている場所に東京都のインフォメーションセンター(観光案内所)が置かれていたことから「インフォメ前」とも呼ばれていた。

「インフォメ前」にダンボール村が移る以前の「第一期ダンボール村」は、数十mだけ離れた新宿駅西口4号街路(駅から都庁方面に向かう2本の地下通路)に存在していた。そこはバブル経済崩壊後に急増した路上生活者たちが自然発生的に作り上げたコミュニティであった。

ちょうど東京都が丸の内の旧庁舎から西新宿の新庁舎に移転した1991年の年末、バブル経済が崩壊。真っ先に仕事がなくなった日雇い労働者たちが92~93年頃から地下通路の柱のかげに沿うようにダンボールハウスを作り始める。「新宿新都心」計画の中心となるべき新都庁のお膝元にダンボール村ができたことに慌てた東京都は、躍起になってダンボール村の排除に乗り出した。

1994年2月17日に東京都建設局はダンボールハウスを強制撤去し、4号街路の一部をフェンスで囲った。しかし、追い出された人々は通路内の残されたスペースにダンボール村を再建。皮肉にも、排除に反発したダンボール村住民と私たち外部から来た支援者が追い出し反対運動を始めるきっかけを作ってしまう。

94年8月には当事者と支援者からなる「新宿連絡会」(新宿野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議)が結成され、東京都に対して追い出しではなく野宿から抜け出すための対策を求めていくことになる。

当時まだ学生だった私が新宿のダンボール村に初めて行ったのは94年3月である。日々、いつ来るかわからない強制撤去におびえる住民たちの話を聞き、排除一辺倒の行政の姿勢に憤りを感じるとともに、医療へのアクセスが悪く、餓死者や凍死者が出ることも珍しくない路上生活者の現状に大きなショックを受けた。そこで、追い出し反対の運動をおこなうとともに、炊き出しやパトロール(具合の悪い方がいないかどうか声をかけて回る活動)、福祉事務所への同行など、「仲間の命を仲間とともに守る」活動を住民たちとともに進めていくことになる。

だが、1990年代はこうした社会運動に対する世間の風当たりは今以上に強かった。路上生活者は「好きでそういう生活をしている」と見られがちであり、行政もそうした社会意識を背景に「不法占拠者とは一切話し合わない」という姿勢を崩さなかった。本来、生活に困窮した人々を支えるべき福祉行政も、「どこの馬の骨かわからない人に生活保護は出せない」(ある福祉事務所職員の言葉)と路上生活者への差別意識をむき出しにして、相談に来た人々を追い返すことも日常茶飯事であった。

そんな中、東京都は1996年1月24日早朝、「動く歩道」の設置工事を行なうという名目のもと、4号街路のダンボール村強制排除を強行した。心ある内部通報者からの情報で「1月23日の晩から新宿駅近くのホテルで数百名のガードマンの宿泊予約がなされている」ことを知った私たちは、4号街路の出入口で座り込みをして徹底的に抗議を続けるグループと、西口地下広場の「インフォメ前に新たな拠点を作り、そこにまでフェンスが建てられることを阻止するグループの二手に分かれるという二面作戦をとることした。後者のグループの目的は強制排除後に新たなダンボール村を再建することであり、私はそのグループの責任者であった。

その日、座り込みをしたグループは警官隊とガードマンに排除され、リーダー格のメンバーはすべて逮捕された。うち2人は「威力業務妨害」で起訴され、9ヶ月もの間、勾留されることになる。だが、警官隊とガードマンは工事区域外までは攻め込んでこず、私たちは「インフォメ前」の防衛に成功した。そこで、当時26歳であった私は自分の父親くらいの歳の路上生活者たちと一緒に西口地下広場での「村」の再建に取り組むことになる。

まずは「インフォメ前に「新宿緊急避難所」という看板を出し、連日炊き出しを行なった。同時に街頭でのカンパ活動も行ない、「排除さえすればいい」という東京都の姿勢を批判し、支援活動への協力を訴えた。多数の通行人が行き交う新宿駅の地下という立地を活かし、世論に訴えることで更なる排除を防ごうとしたのである。ダンボール村の強制排除はマスメディアで大きく報道されたこともあり、一日あたり二〇万近くのカンパ金が集まることもあった。夜間は風よけのためビニールシートで柱と柱の間を囲い、その中で数十人が集団で就寝した。

「緊急避難所」開設から1、2週間を過ぎると、徐々にその周辺にダンボールハウスを自力再建する人が出始めた。あっという間にインフォメーションセンター周辺はダンボールハウスで埋まり、第一期の「村」以上の人々が暮らすようになった。東京都は新しくできた「村」を認めないという姿勢を堅持していたが、強制排除を世論から批判された手前、すぐに手を出すこともできない状況であった。

ダンボール村が再建されたことにより、「緊急避難所」は閉鎖されたが、ダンボールハウスは「インフォメ前にとどまらず、西口地下広場全体に増えていった。夜間のみダンボール一枚を体の下に敷いて眠る人を加えると、西口地下広場だけで300人近い人が路上生活をしていたこともある。

住民たちは北風が吹き始める季節になると、「これから路上生活に陥り、新宿にたどり着くであろう人」のためにダンボールハウスを作るようになった。同じ野宿と言えど、冬の寒さをしのぐためにダンボールの囲いがあるとないとでは、体温の維持という点で大違いだからだ。また、具合の悪い人を一時的に保護するためのダンボールハウスもあった。高齢や病弱で路上生活が困難な人に対し、私たち支援者は福祉事務所に同行し、施設入所などの支援を求める活動を引き続き行なっていたが、福祉につなげるまでの一時的な避難場所としてもダンボールハウスは機能していた。

ダンボール村が完全に再建されると、そこに暮らす人々の魅力に惹かれるように、写真家やビデオジャーナリスト、ダンボールハウスに絵を描くアーティストなど、様々な立場の人々が集まり、住民たちと交流をするようになっていった。一種、「解放区」のような雰囲気が育まれたのである。1997年の年末にはボランティアによって年越しコンサートが企画され、数組のミュージシャンが「インフォメ前で演奏を披露。数百人が集まった新宿西口広場でのイベントは「1960年代のフォークゲリラ以来」と呼ばれた。

だが、排除をあきらめない東京都は新宿警察署や西口商店街とともに様々な圧力をかけてきた。1997年になると、ガードマンと警察官が毎朝、住民たちに退去警告をして回るという嫌がらせを開始。抗議をした支援者が逮捕をされることも珍しくなく、私自身も公安警察から「稲葉、次(の逮捕者)はお前だぞ」と名指しされるという状況が続いていた。

排除一辺倒の東京都の姿勢が変化し始めたのは、第一次ダンボール村撤去の際、「威力業務妨害」で起訴された新宿連絡会の活動家2名が東京地方裁判所で無罪になった頃からである。東京都は従来、ダンボールハウスを路上に放置されている廃材として道路管理権に基づき撤去していたが、東京地裁は判決の中で、ダンボールハウスと言えども個人の私有物である以上、その撤去には法的手続きが必要であり、都の行為には手続き上の瑕疵があると批判したのである。被告の2名は控訴審で執行猶予つきの逆転有罪となったが、行政による撤去行為が司法により批判されたことの意義は大きかった。それ以降、東京では大規模な形での路上生活者排除は強行しにくくなっている。

「不法占拠者とは一切話し合いをしない」としていた東京都の姿勢は軟化し、1997年10月、東京都は新宿連絡会との団体交渉を初めて実施した。都の担当者は新たな路上生活者支援事業を開始するにあたって、「動く歩道の時のようなことはしない」と明言し、「排除ではなく野宿から抜け出すための対策を推進する」という方向に向かって官民の話し合いを続けていくことになった。

「いつ強制排除が来てもおかしくない」という緊張感が漂っていたダンボール村の雰囲気も少しは変わっていくのだろうか。そう思っていた矢先、1998年2月7日未明に火災が発生。50軒以上のダンボールハウスが燃え落ち、住民4人が焼死する惨事が起こったのである。火事の原因はダンボールハウス内からの失火とされている。

ダンボール村ではそれまでも小さなボヤ騒ぎは起こっていた。狭い空間に紙でできた家が密集する居住空間は、誰が見ても耐火性ゼロである。私たちは冬の寒さによって凍死者を出さないことを最優先に考え、ダンボールハウスの建設を次から次に進めていたが、それが火災に弱い空間につくることにつながってしまったのは否めない。私たちは自らの非を認め、東京都との緊急の話し合いにより、住民のうち希望者全員が入所できる施設を都が用意したのを受けて、2月14日、第二期ダンボール村を自主解散した。住民のうち170人以上は都の施設に入所し、新宿連絡会は残りの約30名とともに新宿中央公園に炊き出しなどの活動拠点を移すことになった。

2月7日がダンボール村の命日とするならば、その一週間後に西口から中央公園へと向かった私たちの歩みは、まるで葬儀の列のようであったと記憶している。

以上が、新宿駅西口地下広場ダンボール村(第二期ダンボール村)の誕生から解散までの経緯である。

第一次の「村」が強制排除された後、「インフォメ前」に「村」を再建することを呼びかけた私は、火災により4人の住民が亡くなったという事実に責任を負っていると言わざるをえない。私たちは冬の寒さと行政による排除から路上のいのちを守るために闘ってきたことを自負してきたが、それは結果的に、火災が起これば瞬く間に拡大するという劣悪な居住環境に人々を固定化することにつながったのではないか?でも、かと言って、1996年当時、他にどのような選択肢があったのだろうか?私の自問自答は今も続いている。

迫川尚子さんの写真には、かつて新宿に存在した「村」における住民たちの「生」の営みが写し出されている。その後、路上生活を抜け出してアパートに移った人もいれば、路上や施設で亡くなった人、入院後、どこに行ったかわからない人もいる。

2002年、私たちが要望していたホームレス自立支援法が成立し、「ホームレスの自立の支援を国や地方自治体の責任において実施する」ことが法律に明記されることになった。その数年後には貧困の拡大を受けて、「ネットカフェ難民」や「派遣切り」が社会問題化し、「貧困は自己責任ではなく、誰の身に起きてもおかしくない」という意識が一定程度、社会の中で共有されることになった。

これらの写真は、「貧困問題は日本国内に存在していない」と多くの人々に信じられていた1990年代に撮影された。万単位の通行人たちが見て見ぬふりをしていようと、そこには確実に人々の生と死があり、それらを撮り続けた写真家のまなざしがあった、ということ。そのことを写真は私たちに教えてくれている。そして写真は、2010年代にそれを見る私たち自身のまなざしをも問うているのだ。

(2013年4月『新宿ダンボール村: 迫川尚子写真集 1996―1998』所収)

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