「お節介させて頂いている」という自覚

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「自分は頑張ってお膳立てをしてレールに乗せてあげようとしているのだけど、あの人たちはそれに乗ってくれない」―福祉事務所のケースワーカーや医療機関の相談員と話をしていると、時折そんな愚痴を聞くことがある。

おそらくこのセリフは、野宿者や生活保護受給世帯に接している人に限らず、福祉業界・ボランティア業界一般で密かにささやかれている愚痴の一つなのではないかと思われる。「あいつら本当にしょうがないんだから…」。そんなセリフが例えば援助職同士の飲み会の席で語られてはいないだろうか?

だが、そういうセリフに出会うたび、「ちょっと待ってよ」と私は思ってしまう。
「そう言うあなたは、愚痴をこぼせる立場にいるということをどこかで自分の『よりどころ』にしていませんか?『援助する立場』『ボランティアをする側』に立っていることで、実は何か大切なものを相手から奪っていませんか?」。そう私は言いたくなってしまうのである。

これは自分の実感を込めて言うのだが、『援助する側』に立つ快感というのは確かにある。
人間である以上、確かに頼られるのはうれしいし、「ありがとうございました」と頭を下げられるのは自尊心をくすぐられる。そしてそのこと自体は否定すべきことではないし後ろめたく思う必要もないと私は思う。

ただ、大事なのは「援助をさせていただいている」という自覚を持つということ。その自覚がなくなってくると、自分の思い通りに動いてくれない人(生の人間だから当たり前なのだが)に不満を持つことになる。「ボランティアがボランティアされに来ている」とは、新宿の野宿者支援活動の中でよく語られてきたことだが、その自覚を持って、「自分はお節介をさせてもらっているんだ」ぐらいに思うのがちょうど良いのではないだろうか。

そしてそのためにも、時には意識的に役割を交換してみることも必要だ。役割が固定化してしまうとついつい人は「援助する快感」を独り占めしたくなる。「俺はこんなに頑張っているのに、誰も言うことを聞いてくれない」とか言い出したらかなり重症である。役割を固定せずに交換していくことで、常に関係の在り方を流動化していくこと。分野ごとに役割交替をして、「援助する快感」を「おすそ分け」していくこと。「背負い込み型」のケースワークから「分かち合い型」のグループワークへ。まあ、これほど「言うは易し、行うは難し」ということはないのだけれど…。

だから、「自分はこんなに頑張っているのに」とお嘆きのあなた!頑張っている自分を誉めてあげることも援助職やボランティアに愚痴を聞いてもらうことも大切だが、たまには自分が「援助している」と思っている当の相手に自分の愚痴を聞いてもらっても良いのではないだろうか?

(2001年9月3日付け『福祉新聞』「福祉週評」欄掲載)


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