現代社会の「もやい直し」へ!~自立生活サポートセンター・もやい設立

アーカイブ

「やっと上がり坂になって、上がっていこうとするんだけど、後ろからバットで殴られて、もがいているうちにドツボにはまってしまう」とつぶやいた青年がいた。「稲葉さん、這い上がるのは時間がかかるけど、転げ落ちるのはほんの一瞬ですね」としみじみ語った中年男性がいた。

生活保護や自立支援事業を活用することで、なんとか自力でアパート生活を始めた矢先、思わぬ落とし穴が待ち受けていることがある。借金の取り立て、クビの宣告、体の変調、友人とのトラブル、ギャンブル俵存の再発・‥。「せっかく仕事に就いたのに」「せっかく屋根のあるところで寝られるようになったのに」-世間の人はそう言うだろう。だが押し寄せる悔しさに打ち震えなければならないのはその当人である.我が身の「ふがいなさ」を責める人の顔を私は何度も見てきた。

いったん野宿に至れば、「やり直し」のチャンスをはとんど与えない、この社会。その中で行政の制度を活用できる「幸運」に恵まれ、「屋根と仕事」を自らの手に取り戻した人たち。だが、その後の道のりは決して平坦ではない。「自立」を果たしたと見なされた人々にもはや福祉行政は何のサービスも提供しない.自立支援センターでは退所者の追跡調査すら現状では行なっていないのだ. その結果、もたらされるのは「自立」という名の「孤立」。新たに一人暮らしを始めた地域でゼロから人間関係を築き直すのは至難の技である。

「日本に暮らす外国人労働者たちはなぜあまり野宿に至らないのか」という質問を受けることがある。この国の不況はもちろん彼ら彼女らも直撃している。だが、私はかつて訪れたことのあるイラン人労働者たちの暮らすアパートの一室を思い出す。6畳間に4人も5人も暮らす彼ら。誰が部屋の所有者であるかということはあまり間遠ではない。友人が失業し、住む場所を失えば、当然のようにまた一人招き入れる。「人的なセーフティネット」とでも言うへきものが彼らの「社会」にはあった。

翻って、「豊か」なはずの日本人の社会では?「居候」という言葉がはとんど死語になり、家族の絆、地域のつながりといったものが希薄化した社会は、失業者が野宿に「転落」しやすい社会でもある。

そんな社会の中、路上に生きる人々は人と人とのつながりだけで生き抜く術を身につけたのかもしれない。一人が仕事に行けば、仲間の分の食事や酒まで面倒を見る。一人がコンビニやファーストフードに「エサとり」に行けば、高齢で動けない仲間の分まで取って来る。そんな仲間同士のつながりは、野宿者の暮らすところならどこでも見ることができる。

もちろん、「路上のコミュニテイ」は美化されるべきではない。路上にも強盗もいれば、たかりもある。だが社会の他の場所では近頃あまり見られなくなった、あたたかい仲間同士のつながりがそこにあることも事実である。

路上から脱却した後も、そうしたつながり、関係を維持・発展できないか‥・。それが最初の問題意識である。各地で試みられているように、東京・新宿でも3年前から生活保護受給者の互助会作りを行なってきた。月に2回、お茶会を開き、生活上の悩みや福祉・病院の「悪口」をテーマに語り合う。時にはみんなで登山に行ったり、お寺めぐりをしたりする。「老人クラブ」と自らを椰愉しながら、そうした集いには毎回、数人から十数人の仲間が集まるようになった。

そして昨年11月、東京の野宿当事者が3年間運動をしてきた成果として、「自立支援センター」がようやく開設された。かつての暫定実施での経験や運動側の要求の結果、自立支援プログラムに関してはそれなりに充実した内容が整備された。入所者の7
8割が就職というデータには、他の自治体から信憑性に疑問の声が出たそうだが、運良く「第一期生」として入った入所者が要求運動をしてきた仲間の代表という意識を持ってかなり努力したのも事実である。 だが、就職を果たした入所者もアパート確保には苦労した。アパートを確保するだけの金を貯められない人もいれば、保証人を見つけられない人もいた。そしてアパートになんとか入った人たちもその後の生活のやりくりに多大な困難を抱えることになったのである。

正直言って、我々運動団体の対応は後手後手に回った。「自立支援センター入所者支援センター」が必要だと、かねてから私はあちこちで吹聴していたが、現実の問題に直面するまで動きは鈍かった。そして苦労に苦労を重ねたセンター「一期生」が全員退所し、入れ替えが行われた後、ようやく新宿・渋谷・池袋の各団体のメンバーが集まって新団体設立の協議が始まったのである。

自立支援センターの入所者や「卒業生」、生活保護受給者など「路上脱却」を果たした仲間の相談機関を作りたい。借金やサラ金の問題には弁護士が対応し、心身の悩みには医療関係者が相談に乗る。福祉や労働に関する相談にもその道の専門家が即応できる体制を作りたい。そして保証人バンクを作り、保証人提供のための事業も開始する。将来的にはグループホーム、シェルターの経営や就労支援事業も行ないたい…。夢は広がっていった。

だが、新設される「自立生活サポートセンター」は一方的な「世話焼き団体」をめざしているのではない。何よりも野宿から抜け出した仲間同士のつながりを大切にし、仲間が仲間を気遣う気持ちを原動力にしたい。困難を抱えた仲間が孤立しないよう仲間同士で家庭訪問もしたい。たまにはみんなで親睦旅行もしたい。そうした仲間の輪を広げていくためにも、新宿で行なってきた互助会を母体に、地域も拡大し、自立支援センターの入所者・退所者にも入ってもらえるようにする。また、野宿経験者に限定するのではなく、保証人問題など同じような悩みを抱えた生活困窮者(例えば住み込みの労働者、生活保護受給者、年金生活者、外国人労働者、ドメスティック・バイオレンスの被害者、障害者など)も「仲間」として向かい入れたいと考えている。

新団体の名前は「もやい」に決まった。「もやい(肪)」とは、「船と船を結びつけること。共同で寄り添って事をなすこと」。水俣病の患者である緒方正人さんが提唱した言葉である。(『常世の舟を漕ぎて一水俣病私史-』辻信一構成。1996年、世繊書房)緒方さんによると、沖合いで漁師が嵐にあうと船と船を結び合わせて避難したり、嵐でなくとも数隻で「もやって」情報交換する光景が以前はよく見られたと言う。都市化の中で忘れられていった人と人とのつながりを回復していきたい「人生の荒波」を乗り越えられる仲間同士の「支えあい」を作り出していきたい—そうした想いを「もやい」という言葉に込めて、新団体はスタートした。

2001年5月9日、新宿区大久保地域センターで開かれた「もやい互助会設立集会」には、生活保護を受給してアパートやドヤ、施設で生活している野宿経験者を中心に、自立支援センターの入所者や「卒業生」、年金生活をしている元野宿者、新宿や池袋の野宿の当事者など計50名の仲間が集まった。「もやい」のアドバイザーグループに参加してくださっているヘルスワーカーと社会福祉士の方から、「健康に生きる秘訣はいつも誰かとつながっていくこと。誰かのために、誰かと一緒に過ごす一日を作ろう」「家事は手抜きをしながらはどはどに」といった一人暮らしのヒントを盛り込んだお話をしていただいた上で、全体で意見交換。これから施設に入ることになっている仲間が不安を述べると、経験者が「職員にははっきり思いを伝えた方がいいが、喧嘩腰にならないように」と忠告を述べる場面も見られた。

そして今後の活動としては、「お互い家庭訪問をしていこう」「炊き出しにお米を送ってくれる新潟の農家に農作業の応援に行こう」「旅行に行くなら温泉がいい」といった活発な意見が出され、なごやかなムードの中で設立集会は終わった。

今後は保証人提供事業や専門相談で一人ひとりのニーズに応えながら、「もやい結びの会」という名前になった互助会の活動を通して、仲間同士の親睦・交流を深めていきたいと考えている。設立集会で「路上から墓場まで」という冗談を言っていた人がいたが、路上での「出会い」という「点」でのつきあいから出発して、息の長い「線」のつながりにしていくこと。そして時系列的なタテの「線」と仲間同士のつながりというヨコの「線」を織り成していくことで、「面」としての「支えあい」を創っていくことをめざしていきたい。ささやかながら壮大な「もやい直し」の試みはまだ始まったばかりだ。

(2001年7月『季刊シェルタレス』に掲載)

[`evernote` not found]

>

« »