社会運動団体で発生した性暴力への対応をめぐる対話(小林美穂子・稲葉剛)
この記事は、震災支援ネットワーク埼玉(代表:猪股正弁護士)で起こった性暴力事件を踏まえた上で、社会運動団体における性被害対応の問題点について対話形式で考察したものです。
この事件について被害者の女性が書かれた下記のブログ記事をまだ読まれていない方は、必ず先にお読みください。
震災支援ネットワーク埼玉事務局長による性被害について
https://imherekoko.blogspot.com/2022/01/blog-post.html
震災支援ネットワーク埼玉HP掲載文書と私の要望について
https://imherekoko.blogspot.com/2022/03/hp.html
この事件に対する団体の対応について、つくろい東京ファンドスタッフで、私のつれあいでもある小林美穂子が下記の記事を書きました。
震災支援ネットワーク埼玉で起きた性暴力、その対応がダメなわけ(小林美穂子)
https://maga9.jp/220223-2/
以下は、小林が記事の中で問題視している「事件が起こった後の団体の対応」のあり方について、小林と私が対話した記録です。
稲葉 「震災支援ネットワーク埼玉」で起きた性暴力の問題で、被害者がブログでの告発に踏み切らざるをえなかったのは、団体の代表が組織として対応をずっとネグレクトしてきたからだよね。スルーしていれば、逃げ切れるという考えがあったのでしょう。
団体のホームページに謝罪文のPDFがアップされたけど、団体や代表のSNSアカウントでは一切、このことに触れないまま。世間が忘れるのを待っているのか、と情けない気持ちになる。
小林 「良いことのためには多少の犠牲は仕方ない」という発想なんだと思うけど、説得力ないよね。目の前の一人を助けらないのに、どんな多くの人を助けられるんだと。
稲葉 社会運動への影響を考えてしまうのだろうね。僕もこういう問題が起こった時に、反射的に社会運動への影響を考えてしまう傾向があるので、被害に遭った方の尊厳を最優先に考える、という立ち位置からぶれてしまわないよう、気をつけないといけないと思っているけど。
被害者のブログのタイトルにもなっている“I’m here”という悲痛な声に応答しなければ、という思いで、団体の代表に対して被害者に真摯に向き合うことを求めてきたけど、その一方で、反貧困運動への影響ということについても考えたのも事実。代表は生活困窮者支援運動における中心的な法律家の一人でもあるから。
僕としては社会運動をバージョンアップしていくためには内部で起こる問題にも向き合っていく必要があると考えて、発言をしているけど、それは「社会運動にプラスかマイナスか」という判断基準での発想に過ぎないという限界も感じている。短期的にはマイナスになると考えて、この問題で沈黙をしてしまう人の気持ちも理解できてしまうところもある。
生活保護の問題でも他の問題でも、制度や政策を変えていくためには、社会運動が必要で、社会運動の主体としての組織というのはどうしても必要になると思っているので、こういうことが起こった時に「社会運動の力が削がれることは避けたい」という意識がどうしても頭をもたげてしまうんだよね。そういう「運動ファースト」の意識が、社会運動団体で問題が起こった時に内部の人や近しい人が沈黙してしまい、被害者を孤立させてしまう構図を作ってしまっている。自戒を込めて。
こういう時に、積極的に発信する人はフリーランスなど、立場的に独立している人がほとんどで、組織に属しながら発信している人はほとんどいないのだけど、美穂子さんはなぜ言えてるの?
小林 「野良」活動家だからじゃない?つくろい東京ファンドで、それぞれ考え方の違う個人がみんなバラバラに動き回っているような中にいるからこそ、こうやって別のところで起きている性暴力やハラスメントに対して言いたいことが言える立場を担保できている。つくろいではそういう発言を止める風潮も特にないし。しかも、このネットワークで私が孤立しようとも、私は「活動界隈」外の友達がいるので、そんなに損害を被らないというのもあるし、活動の中でも他の人と協力しないとできないということをやっているわけでもない。すごく独立した立場にいるから言えるのであって、これが別の団体にいたら、たとえ性暴力やセクハラ・パワハラは絶対にいけないと思ったり、被害者に心を寄せたいと思ったとしても、まず組織の中で「それはやめてくれ。うちの組織に不利益になるから」と言われてしまうから、そこで発言や行動を制限される。言われなくてもそういう空気ができ上がる。活動界隈で働きにくくなったり、完全に孤立して総スカンをくらったりするのを怖れて、沈黙するんだろうね。
稲葉 これまで他の社会運動団体でも問題が起こった時に、被害者に真摯に向き合おうとしなかったり、関係者が沈黙して隠ぺいに加担したり、ということが何度も繰り返されてきました。どの団体でも共通の問題だよね。
小林 社会活動をしている団体は「正しくあらねばならない」、つまり自分たちは「正しい」「正しいはずだ」と勘違いすることから問題は始まっているんじゃないかね。
稲葉 無謬性の神話だよね。「間違ってはいけない」という前提で動いているから、「そんな自分たちは間違っていないはずだ」と思いこんでしまう。
小林 そこに全てのシナリオを押し込んでいくんだよね。都合の悪いことがあると、排除することで「解決」をはかる。良いことをしている団体でもいろんなことが起こるわけで、私たちはどんなに正しくあろうとしても、いくらでも間違いをする生き物なんだから。その時に間違いに向き合えなくなるのは、結構、危うい状態なのに、それがもう当たり前になっているという。それはとても恥ずかしい状況なのだと他人を見ていて思うけど、とはいえ、問題が自分に降りかかってくるのは明日かもしれない。その時、自分はどんなふうに対応するのか。もしかしてすごく恥ずかしい、そこから逃げてしまうということをするかもしれないんだけど、一回、反射的に逃げてもまた戻ってこれるかどうか。そこにかかっているのかなと。
間違いは犯すんだし、もしかして一回は逃げるかもしれないけど、逃げ続けるのか。逃げ続けるために相手を悪者にし続けるのか、とか。ちゃんと向き合って、「問題は私にあった」と言えるのか。そういうのが常に自分に問われているよね。試され続けるよね。
稲葉 「間違えたら、自分が間違えたと言える」というのは大切だね。鶴見俊輔が「まちがい主義」ということを言っているけど…。
小林 また難しいことを言って。
稲葉 「自分たちは間違うことがあるんだ」ということを前提にした方が良いという話で。
小林 そりゃそうだよ。どんだけ傲慢なん。
稲葉 どの組織でも間違いうるんだという前提に立つ必要があるということだよね。本当は再発防止を徹底して、性暴力やハラスメントが起こらないようにするのが一番なんだけど、それでも起きてしまうという現実があって。それでも起きてしまった時にどうするか、ということをあらかじめ考えておく、というのが重要だよね。
小林 自分がやってしまった時、あるいは自分の所属する団体のスタッフがやってしまった時、あるいは活動を進めていく上で関わりのある第三者が加害者になった時とか、世話になっている人が加害者になった時とか、そういうのを全て想定して考えて、「その時、自分はどう考えるべきなのか、どう動くべきなのか」を常にシミュレーションしたり、考えたり、想像力を広げていくのが必要だね。加害者、被害者が誰であるのか、自分とどういう関係にある人なのかによって、心の微妙な動きは絶対に変わるので。その動きがどういう感情によって引き起こされているのか、とか、それが被害者にとってフェアであるのか、ないのかとか。そういうことをつぶさに観察しないといけない。
稲葉 今回の自分の立場というのを改めて考えてみると、僕は被害者の女性や団体の代表はよく知っているけど、加害者の男性とは面識がなかったんだよね。もし、これが逆に加害者側をよく知っていて、被害者側とは面識がない、という立場だったら、どうふるまったのだろうか、ということも考えるけど、その場合は沈黙していたかもしれない。
小林 常に自分を観察して振り返るのは大変な作業なのだけど、それをしないのなら、「人権」とか口にしてはいけない。政治家とかで、プライベートと政治的手腕は別だという言い方をすることはあるけど、「人権」とか「社会の不平等をただす」と言って活動をしている人たちの集団は、「自分が人としてどうあるべきか」から逃げてはいけないと思う。
稲葉 でも、そこで潔癖であることを求めてしまうと、最初から「正解」を求めてしまうのかも。ストイックに「正解」を求めていって、一回、「正解」を手にしたと思ったら、もう自らを省みることをやめて、「私は間違えていない」という発想になってしまうのかなと。
小林 なるほど。逆説的!それが今の現象ということ?
稲葉 「間違いがありうる」ということを念頭に置きながら、間違ったら、いったん立ち止まって、謝罪し、改める、というプロセスが大切なんだけど、自分も含めて、それが難しいなと。男性ジェンダーの問題なのかもしれないけど。
それが集団になると、「仲間をかばう」というホモソーシャル的な「かばい合い」の文化が作られていって、ますます修正が利かなくなる。
小林 なんで仲間がやらかしたことを隠蔽することで一致団結するのかね?なんで、それが「仲間意識」と思っているのかね?
稲葉 一緒に活動している仲間をリスペクトすることと、その人の犯してしまった間違いを見て見ぬふりをするということが同一線上になってしまうんじゃないかな。
小林 それで、整合性を取るために、無理矢理、被害者の方に非があるようなストーリーにして、自分もそれを信じ込んでしまう、ということでしょ。それはひどくアンフェアだし、極悪やで。リスペクトと批判は共存できるし、全然矛盾しないことなのに。つーか、間違ったことを指摘されて怒るような人は未熟な人だと思うけど。
稲葉 被害者も「仲間」なんだけど、栗田隆子さんが『ぼそぼそ声のフェミニズム』で指摘しているように、いつも被害者の側が活動から離れざるをえない、組織を出ざるをえない、という状況に追い込まれていって、被害者が離れてしまえば、「丸く収まった」という話にされてしまうんだよね。なんだろうね、この組織文化は。
小林 それは、日本社会に根深い「個よりも組織が大事」という文化でしょ。自分は「個」だけではなくて、その団体を支える駒の一つなんだろうね。みんなで重たい「組織」を背負っていて、その中で一人が他の人の言動に異を唱えると、「組織」の歩みが乱されると考えるのだろうね。そういう「調和を乱す」「和を乱す」人は許されないんだよね、日本では。だから村八分にして、出て行かせる。だけど、さすがに今の時代は昭和と違って、露骨に村八分にはできないから、その人の非をあげつらったり、でっち上げたりしてイメージを低下させて「空気」を作って、出て行かざるをえないようにする。それは本当にテンプレのように巧妙化していて、どこの団体でも行われてる。
それって小学校、中学校の時にあったいじめと全く同じ構図で、それが洗練されて、アップグレードされて、大人の組織でも行われている。この国には「いじめはいけない」と子どもに言える大人なんて誰もいないのではないか、と思うくらい、大人の世界の方が苛烈。でも、巧妙化しているから分かりにくくて、やられた方は、黙っていなくなるしかない。
発言や抵抗をすることで、どういう仕打ちを受けるかということを女性はよーく知っている。あるいは弱い立場にいる男性もそうだと思うけど、身をもって知っていたり、見てきたりしているわけだから。「次は自分がターゲットになる」というのは、いじめの中ではあまりによくあるシナリオだよね。被害者を守ろうとすると、今度は自分がターゲットになる。本当によくあるシナリオなので、それをみんな学習してきているので、言えない。
稲葉 疑問を持っても、沈黙を強いられる構造があるんだよね。どこから変えていけばいいか、わからなくなるね。
小林 わからないよね。黙るよね、みんな。個が確立していないから、自分の意見を主張する自由が約束されていないから、まぁ、黙りますよ、みんな。私は黙ってしまう心理的メカニズムや社会構造も理解はできるし。私自身、これまで支援団体で起こる性暴力について、事情がよくわからない場合、おもてだって批判せずに黙ってしまったという時があったからね、あの時どうして私は黙っていたのかなっていう自問自答は続いている。
だけど、全ての人が、どの立場にあっても、組織の中にいても「私はこう思う」と言えるようにならなければ、おかしいのよ。「私はこの組織に属しているし、この組織で頑張りたいと思っているけど、これには反対だ」ということを言える環境にしていかないとダメだと思うのね。組織も個人も成長をしない。失うものばかりだと思うんだけどね。退化!
稲葉 組織の中で一人ひとりが空気を読まずに異議を唱えるということを習慣化していくこと、組織の中での「居心地の良い」人間関係を相対化する視点を常に持つことが大切だよね。特に男性は組織と自分を同一化してしまう傾向があるので、気をつけないと。
この問題では、自分の考えをなかなか言語化できないでいたので、あえて対話という形を取ってもらいました。ありがとうございました。
※この記事を作る上で、以下の記事・文献を参考にさせていただきました。
ウネリウネラ「良きもの」の中の性被害について
https://uneriunera.com/2020/12/04/yokimono/
ウネリウネラ「震災支援ネットワーク埼玉」の性被害対応について
https://uneriunera.com/2022/02/04/seijitsunataiouwo/
栗田隆子『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社、2019年)
星野智幸『だまされ屋さん』(中央公論新社、2020年)
2022年3月22日