【2014年11月30日】 中日新聞:「家族のこと話そう」 稲葉剛

メディア掲載

11月30日付け中日新聞・東京新聞の「家族のこと話そう」欄に、稲葉剛のインタビュー記事が掲載されました。

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家族のこと話そう:稲葉剛 被爆体験語った母

 

ものごころがついたころに父は家におらず、母と姉、兄、祖父母と暮らしていました。両親は離婚して、父は「たまに会うおじさん」という感じ。小学校の途中で祖父母は引っ越していきました。母がスナックのママをして一家を支えてくれました。

私が強い影響を受けたのは母です。母は10歳のとき広島原爆を体験。疎開先の小学校の校庭できのこ雲をみたそうです。母のおばと幼なじみの友だちが亡くなり、母も数日後に広島市内に行って、「入市被爆」しました。知り合いの人の顔がやけただれ、誰かわからなかったそうです。

そんな話を、何かのおりにぽつりぽつりと口にする。「戦争は嫌だ」と話していました。原爆についてよく話し合う家族で、毎年の8月6日の午前8時15分にはテレビをつけて黙とうしていました。8歳上の姉は高校生の時、NHKの番組で平和への願いをしゃべったことがあり、外国人に広島の慰霊碑を案内するボランティアをしていました。

私は小学校の時、アニメの「宇宙戦艦ヤマト」が好きでした。ある日、日本軍の戦艦図鑑を見ていたら、姉から「人を殺す道具だよ」と言われたんです。母は勉強についてうるさいことは言いませんでした。私は中学・高校時代は私立高校で寮生活。家族とは夏休みなどに帰省したときに話すぐらいになりました。

大学入学後、平和運動に加わったのは、広島出身の被爆二世としての問題意識があったから。1991年の湾岸戦争では、学生を集めてデモをしました。新宿駅西口で段ボールハウスの野宿者たちが東京都に強制排除されたニュースを見て、野宿者の支援活動を始めた。強制排除反対の活動で警察に逮捕されそうになったこともあり、母や姉には心配をかけました。

平和運動と貧困者支援は、「人の命が理不尽に奪われている」という点で共通しています。野宿の人が凍死や餓死したりする。戦争と同じようなところがあると…。当時の自治体窓口は、生活保護の申請を受け付けない「水際作戦」を今より強力に行っていました。それで仕方なく路上生活をする人がいます。

私は大学に6年いて、東京大大学院に進んだのですが、活動が忙しくやめてしまいました。姉に強く反対されましたね。折に触れて「もやい」の会報を送り、自分たちの活動を取り上げた新聞記事のコピーも送っています。今も広島在住の母がカンパしてくれることもあり、理解してくれているようでうれしいです。(聞き手 白井康彦)

 

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