「生」が無条件肯定されない社会で

アーカイブ

今年(2008年)5月、日本テレビの系列局で、私が代表を務めるNPO法人自立生活サポートセンター・もやいの活動を取材した『ネットカフェ難民3~居場所どこに?』が放映されました。ネットカフェで生活せざるをえない若者たちの状況に象徴される、現代日本の貧困問題を早くから取り上げてきた水島宏明ディレクターによる一連のシリーズの最新作です。

番組の中では、<もやい>のもとに相談に来た十代の若者の状況と、彼らに付き添う<もやい>の若手スタッフとのやりとりがリアルに描かれていました。

しかし、視聴者の反応は厳しいものでした。特に里親から見捨てられ、生活に困窮して路上生活を経験し、私たちの支援を受けて生活保護を受給することになった若者の描かれ方に対して、「態度が悪い」とか、「あんな人に生活保護をかける必要は無い」といった内容の書き込みがインターネット上でなされ、テレビ局にも批判的な意見が多く届いたと聞いています。

特に、彼が「遊ぶお金が欲しい」とスタッフに迫る場面に非難が集中しました。「生活保護を受けていて、国のお世話になっているのに、『遊ぶお金が欲しい』とは何事だ?」というわけです。

私はこうした反応を見て、暗澹たる気持ちになりました。以前に比べて、貧困や格差に関する報道は増え、社会の中に理解が広がった面もありますが、やはり世間の主流は、「一生懸命がんばっている生活困窮者」なら同情するが、まだ「一生懸命がんばる」状態にまでなれないでいる者、彼のように大人から裏切られ続けて社会そのものが信じられなくなり、精神的にもつらい状態にいる若者の状況まではわかろうとしないのか、と思ったのです。

おそらく十代の彼が、かつて私自身がそうであったように親の援助を受けて遊び暮らす学生であったのなら、そのことについてとやかく言う人はいなかったでしょう。しかし、家族からも児童福祉からも適切な援助を受けられなかった彼は、生活保護制度に頼って生きていかざるをえない。そして生活保護受給者となることで人々の監視の目を注がれる存在になってしまうのです。

本来、憲法25条に明記され、生活保護法で具現化されている生存権は、誰であっても、どんな人であっても無条件に生きる基盤を保障する、という内容になっています。しかし、今の私たちの社会はまだそうした理念を受け入れる度量ができていないのではないでしょうか。「生」が無条件に肯定される社会にまだなっていない、という気がしてなりません。

よく生活保護受給者については、実際はごくわずかしかいない不正受給の問題が過剰に語られたり、「生活保護を受けているのに刺身を食べているのはけしからん」といったいわれのない批判がなされたりします。路上生活者に対しても、「あの人たちはみんな好きでやっているのだから、支援する必要がない」などということが語られたりします。

私が感じるのは、そのように生活困窮者の暮らしをチェックして、他者が「生きる」ということに対してハードルを設けようとする人々は、実は自分自身の「生」も無条件に肯定していないのではないか、ということです。「一生懸命がんばっている」とか「働いて家族を養っている」とか、設定されるハードルはいろいろありますが、さまざまな不幸に見舞われて自分が設定したハードルを自分で乗り越えられなくなった時、自らの存在を肯定できずに苦しむのはその人たち自身ではないか、という気がしています。

私は、1994年から路上生活の人たちの支援活動を東京・新宿で始め、路上の視点からこの社会が大きく移り変わっていくのを見てきました。バブル経済崩壊後、全国の大都市に現れた路上生活者を、行政を含め私たちの社会は基本的に放置してきたのではないか。貧困の原因を本人の自己責任に求め、全ての人の生存権を保障していくという理念を忘れてしまった私たちの社会は今、大きなつけを払おうとしているのではないか、と私は感じています。中高年の男性に限らず、若年層にも貧困が広がり、「勝ち組・負け組」といった経済的な実力のみで人間を判定する浅薄な価値観が横行する。そうした中で「生きがたさ」を感じているのは、実際に生活に困っている人だけではないはずです。

今年(2008年)6月に東京・秋葉原で発生した無差別殺傷事件は、そうした社会の一つの帰結であるように私は感じました。「誰でもよかった」と言って人間のいのちを奪っていくことは決して許せることではありませんが、実は「誰でもいい」「代わりならいくらでもいる」と言われ続けてきたのは、容疑者自身だったのでないか。「生」を無条件に肯定することのできない社会で、「生きること」を肯定できなくなった者が他者を攻撃することで自分の生きている証を求めようとしたのではないか。そんな印象を持ちました。

では、そうではないやり方はどこにあるのか。この社会に生きる一人ひとりが「生きること」を肯定でき、他者と対等につながりあっていける社会を作るために必要なことは何なのか。それは、市場経済至上主義的な価値観の外、たとえば日本の宗教の伝統の中にひとつのヒントがあるのではないか。そうした問いをぜひ仏教に携わる人たちには持っていただければと願っています。

(2008年8月、浄土真宗本願寺派東海教区会報に掲載)

[`evernote` not found]

>

« »