「ホームレス状況」からの脱却を支援して~<もやい>の活動を中心に

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ある男性の死

今年(2006年)1月7日未明、新宿駅西口ロータリーで一人の男性が凍死しました。12月の平均気温が戦後最低になるなど、例年より一段と厳しい冬をなんとか乗り切ろうと、野宿の人たちへの呼びかけを強化していた中での出来事でした。

その日の夜、支援団体・新宿連絡会のメンバー間で緊急に呼びかけ、臨時のパトロール(夜回り)をおこないました。使い捨てカイロを配りながら、新宿駅周辺で野宿を強いられている人たち一人ひとりに声をかけていきます。いつもは日曜日の晩に回っているので、「あれ、今日は日曜日じゃないよね?」と声をかけられ、凍死者が出たことを説明して、注意を呼びかけていきました。

亡くなった方がいたのは、風の吹きすさぶ地上のバス乗り場で、地下に下りる階段の出入り口付近だったという話を、近くにいた野宿の当事者からうかがいました。そこから地下に降りれば、深夜、百人近い方が体を休めている地下広場があり、なぜ比較的暖かい地下広場に行かずに地上にそのままいたのかということが悔やまれます。周りの仲間の話によると、おそらく他の地域から流れてきた人で、暖をとるためにお酒を飲んでいたようです。年齢は60歳くらい。結局、この方の身元はわかりませんでした。

おそらく彼が新宿で野宿生活をある程度続けてきた方であれば、自らの身を守る術を知っていて、風の吹く地上で寝ることは避けたと思われます。あるいは彼を見知った仲間が「そこは危ないから地下に降りな」と声をかけたことでしょう。路上で生き抜くために必要なのは、防寒着や毛布だけでなく、正確な情報や自分を支えてくれる人間関係だということを改めて感じました。

「いのちを守る」活動と行政の対応

この出来事を受けて、新宿連絡会では、新宿区に対して厳冬期の緊急宿泊枠の拡大を要請しました。その結果、宿泊人数の枠が拡大されたことを受けて、パトロールの回数を増やし、緊急宿泊の受付方法について周知徹底を図りました。

こうした「路上のいのちを守る」活動は、現在、全国各地で展開されており、都内だけでも20~30団体が活動をおこなっています。その中には「ホームレスの救済」を掲げる宗教団体もありますが、90年代半ばから新宿や山谷地域が発祥地となり、野宿の当事者と共に活動していこうとする団体も生まれてきました。新宿でも「支援活動」が存在しなかった時期から自然発生的に野宿の当事者の間で培われてきた支えあいに着目し、後から来た支援者が野宿の当事者から学びながら、「仲間の力で仲間のいのちを守る」活動を展開してきました。

それに対して、東京都の行政は当初、新宿の野宿者を「公道を不法占拠する存在」と見て、排除一辺倒の対策をとってきました。しかし、1996年1月におこなった新宿西口地下通路での強制排除が世論から非難され、司法からも批判される(「威力業務妨害罪」で逮捕された新宿連絡会メンバー2名が東京地方裁判所で無罪になり、地裁は東京都側の対応を批判)、という事態を受けて、東京都は方針転換を余儀なくされ、1997年秋以降、「排除ではなく、個々の野宿者の自立を支援する」という方向へと変化していきます。「排除では何も解決しない」、「追い出しではなく、野宿から脱するための対策を実施してほしい」という私たちの主張が受け入れられるようになったのです。

しかし、「路上生活者の自立支援」を目的とした対策は、施設予定地周辺の地域住民の反対や23区の足並みの乱れにより、停滞を余儀なくされます。2000年11月に入り、ようやく野宿者の再就職を支援するための「自立支援センター」が都内2ヶ所に開設され、「野宿から脱するための対策」を求めていた諸団体が合同で、今度は入所した仲間を支えていく活動を展開していくことになります。そこで問題になってきたのが「保証人問題」でした。

「人間関係の貧困」と保証人問題

野宿を強いられている人たちの平均年齢は55歳前後であり、長引く不況の中、ただでさえ中高年の人たちの再就職は困難な状況にあります。しかも住所がないことにより、履歴書を持参しての求職活動は事実上閉ざされてしまいます。東京都と23区が共同で開設した「自立支援センター」は、その点に着目し、センターに住民票を設定することで再就職を支援しようとするものです。

しかし、仕事が見つかって、アパートに入居できるお金が貯まったとしても、連帯保証人が見つからなければアパートに入ることができません。

野宿を強いられている人たちは、失業して生活に困窮し、野宿に至る過程の中で、経済的な基盤だけでなく、人間関係も失ってきた方が少なくありません。逆に言えば、生活に困った時に頼れる身内や友人がいれば、野宿状態まで至らずに済んだかもしれないのです。ですから、その状態から抜け出るためには、経済的な基盤を再構築すると同時に、「人間関係の貧困」をも解消していく必要があります。「アパートに入れる経済的基盤ができたのに、連帯保証人がいないので、アパートに入れない」という問題は、この「人間関係の貧困」を象徴している出来事だと言えます。

こうしたことは「自立支援センター」開設前から容易に想像できたことでした。ですから私たちは、「自立支援センター」の早期開設を求める運動の中で、保証人問題への対応を求めてきました。しかし、行政側は「アパート契約という私的な契約に公的機関は介入できない」という建前に逃げ込み、現在に至るまで「保証人問題は検討中」として、「永遠の検討課題」に棚上げしようとしています。

「自立支援センター」が開設し、路上で見知っていた仲間が次々と保証人問題にぶつかる中で、各支援団体のメンバーが集まって協議を重ね、保証人を提供するための民間団体を設立することになりました。

「もやい」に込めた意味

新団体の名称は、「自立生活サポートセンター・もやい」(以下、<もやい>と略す)となりました。あえて「自立」という言葉を使ったのは、経済的な自立のみを「自立」とする行政側の考えに対して、「保証人問題」に象徴されるような「人間関係の貧困」に立ち向かう中で、「自立」が見えてくるはずだ、という意味が込められています。一人で何もかも解決しようとするのが「自立」ではなく、「困った時にはお互いさま」と言えるようなつながりを作っていくことが「自立」なのではないかと考えたのです。それは野宿を経験した人々の「自立」だけではなく、社会の中の貧困を放置してきた私たちの「自立」でもあります。

そして、「人間関係の貧困」に立ち向かう「つながり」を「もやい」という言葉に込めました。「もやい(舫)」とは、もともと漁師の間で使われていた言葉で、「船と船を結びつける。転じて、寄りそって共同で事をなすこと」を意味します。沖合いに出て、嵐に遭った際に漁船と漁船を結びつけて、お互いの身を守ったり、晴れの時にもお互いをつないで漁場についての情報交換をしている、という話から、そういうつながりを大都会の海の中で作っていきたいと思い、言葉を拝借しました。

広い意味での「ホームレス状況」

また、<もやい>の特徴は、広い意味での「ホームレス状況」に着目したことにもあります。日本におけて「ホームレス」という言葉は、イコール「路上生活者」「野宿者」という意味で使われてきました。しかし、本来の意味の「homeless」とは、「自分の権利として主張できる住居を持っていない状態」を意味します。つまり、路上や公園、河川敷などで寝泊りをせざるをえない状況を意味するだけでなく、施設や病院、友人宅、旅館などで暮らしている人たちも広い意味での「ホームレス状況」にある、ということになります。最近では、マンガ喫茶やサウナ、カプセルホテルなどで生活をする若年労働者も増えてきていますが、彼らもまた「自分の権利としての住居を持たない」という意味で「ホームレス状況」にあります。

こうした観点は、<もやい>の設立準備段階から応援していただいている団体の中に、精神障害者の支援に関わっている団体や、女性のシェルターを運営している団体があったことにより、得られた視点でした。たとえば、一人暮らしが可能であるにもかかわらず、保証人がいないために施設や病院から出られない心身障害者が多数いること、ドメスティックバイオレンスのサバイバーは、いったんシェルターに駆け込んで、そこから新たな生活を始めようとする際に、今までの人間関係の中で保証人を頼めば、加害者に居所を知られてしまうこと、といった現状をこうした団体に関わる方々から教えていただきました。それで、<もやい>は設立当初から、こうした人々も含めた「広い意味でのホームレス状況」にある方々を支援していこう、という観点を持つことができたのです。

よく昔から「保証人には死んでもなるな」と言われます。ほとんど資金もない中でのスタートだったので、口の悪い関係者からは「一年持たない」とか「すぐつぶれる」と言われることもありました。ただ私たちには、「多くの人が『自分も将来、他人事ではない』と感じている問題に対応できる仕組みを作れば、必ず大きな反響があるだろう」という確信だけはありました。幸い、その確信は当たり、設立直後に新聞で大きく取り上げられたこともあって、全国の市民から数百万の資金が集まって、事業をスタートすることができました。

入居支援とアフターフォロー

設立からまもなく5年。<もやい>の事業は確実に広がっています。ここでは、入居支援と入居後のアフターフォローおよび交流事業について説明したいと思います。

入居支援は、アパート入居時の連帯保証人を提供するもので、現在までに延べで900人の入居に関わってきました。連帯保証人になるのは、「保証人バンク」に登録したメンバーが個人として保証人確約書にサインしますが、実質的な負担は<もやい>が団体として全てかぶることになっています(本年4月より<もやい>が団体として保証人になる形にシステムを変更)。その意味で保証人の負担は免除されますが、<もやい>の目的はあくまで入居者を支援することなので、入居される方にはトラブルが発生した段階で早めに相談に来ることをお願いしています。過去に「人に相談して解決した」という経験を持っていない人の中には、自分で全てを解決しようとして抱え込んでしまう方もおり、時としてそれは「トンコ(夜逃げ)」という形で現れます。特に「自立支援センター」などから再就職して、アパートに入った人のその後は厳しく、そもそもが不安定な仕事が多いため、再び仕事を失って、家賃が払えなくなる人が後を断ちません。そうした場合、一人で福祉事務所に相談に行っても、「働ける人は対象外」などと言われて門前払いをされることが多いので、<もやい>のメンバーが福祉事務所まで付き添って行き、ご本人が生活保護申請という当たり前の権利を行使するのをお手伝いすることも増えています。

気軽に集える場をつくる

一方で<もやい>は、かつて「ホームレス状況」にあった方々が安心して気軽に集える居場所作りにも力を入れています。設立以来、「横のつながり」を作るための互助会活動(学習会やレクリエーションの開催)は行なってきたのですが、その中のある席で、ある方から「誰でも気軽に集まれる場所がほしい」という提案がありました。一昨年、事務所を飯田橋の一軒家(こもれび荘)に移転したのをきっかけに、居場所作りの構想がふくらみ、それは「サロン・ド・カフェこもれび」という交流サロンになって結実しました。毎週土曜日だけのカフェですが、ランチやコーヒー、お菓子を互助会の仲間が中心になって作り、毎回、30人前後の仲間が集っています。現在、カフェに集う仲間を中心に、東ティモールのコーヒー農家を支援するNGOと連携して、コーヒー豆をみんなで焙煎していこうという計画が進行中であり、うまく行けば、自分たちで焙煎したコーヒーをカフェで出し、ゆくゆくは販売もしたいね、という話をしています。

かつて野宿をしていた大工さんたちが中心になって改装も進み、昨年(2005年)秋からはカフェのスペースも広がりました。最近は母子家庭の子どもたちも遊びに来るようになり、文字通り老若男女が集う場所になってきました。かつて野宿をしていた男性が子どもたちの前では孫を見るような柔らかい顔つきになります。その顔を見るたび、一人ひとりがあたり前の暮らしを取り戻せるような支援をこれからも続けていきたいと思います。

(2006年7月、『ピアでいこう』(全国ピアサポートセンターネットワーク発行)掲載))

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