「令和の宴」と貧窮問答~「統合」と「分断」の時代に社会活動家が詠む歌は?

提言・オピニオン

4月1日 、あらかじめ予定されていた2つのニュースが日本国内を駆け巡った。

1つは、天皇代替わりに伴う新元号の発表。
もう1つは、改正出入国管理法の施行と出入国在留管理庁の発足である。

新元号「令和」が発表されると、新聞の号外に群衆が殺到したり、次々と便乗商品が販売されたり、日本中がお祝いムードに包まれた。
「令和」の引用元となった「万葉集」の序文に記された「梅花の宴」が開かれたとされる太宰府市の坂本八幡宮は、一躍、有名スポットとなり、観光地化が急ピッチで進められている。

お祝いムードの影響か、新元号を発表した安倍政権の支持率も10%近くアップしたという世論調査の結果もある。
さながら、日本中が「令和の宴」に酔いしれているかのようだ。

私自身は元号は不要だと考えており、元号が変わることによって時代が変わるという考えは持っていない。
しかし、改元によって社会の空気が「変えられてしまう」ことに対しては、大変、危機感を抱いている。

新元号の発表により、テレビのニュースや新聞の紙面では「2番目のニュース」である外国人労働者の受け入れ拡大についての報道は後ろに追いやられてしまった。
実質的な移民の受け入れにつながる政策の実施こそ、「時代の転換点」として報道すべきニュースだと私は思うのだが、「令和の宴」によってかき消されてしまった感がある。

これは偶然だろうか。
昨年の入管法改正は、外国人の人権擁護が不十分であるとする野党のみならず、与党内の保守派からも「実質的な移民を認めるもので、日本社会の統合を損なう」という批判が根強くあった。
政府が具体的な政策の中身を省令に委ねる「スカスカの法案」を強引かつ拙速に通したのは、国会審議が長引けば、身内からの批判に耐えられなくなるからだと、当時、マスメディアが指摘していたのは、記憶に新しい。

その法改正が具体化する4月1日に、保守派に配慮した「初めて国書に由来する元号」が発表されたのは、タイミングが良すぎないだろうか。
「移民の受け入れによって社会統合にひびが入る」との批判を封じ込めるために、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(憲法第1条)である天皇の権威を最大限活用しようとしたのではないか、という疑念を私は持っている。

「統合」と「分断」が同時進行する日本社会

「令和」の発表にあたっては、総理大臣が新元号に込めた思いを語るという異例の記者会見も行われたが、その場で安倍首相は元号が「日本人の心情に溶け込み、日本国民の精神的な一体感を支えるもの」であると語った。
安倍首相は記者との質疑において「いかに時代が移ろうとも、日本には決して色あせることのない価値がある」とも語っており、新元号によってナショナリズムを鼓舞し、「国民統合」を進めようという意図が随所に見られる会見であった。

他方、政府の外国人政策は「統合」ではなく、「分断」を指向しているという点で一貫している。
政府は入管法改正に伴う政策変更を「移民の受け入れ」ではなく、「外国人材」の受け入れであると何度も強調してきた。
日本国内で働くため、外国から多数の「人」が来るのに、そのうち帰国する「人材」としてしか扱わないというのは、明白な欺瞞である。

だが、「外国人材」という呼び方には「人」として扱いたくないという態度表明も盛り込まれているように私には思える。

例えば、
数々の人権侵害が明らかになった技能実習制度を温存する。
新たな在留資格を持つ外国人が永住権を得るためのハードルは高く設定する。
国内に逃れてきた難民申請者の認定をほとんど認めない。入管の収容施設内での人権侵害を放置する。
外国人の子どもたちには義務教育を保障しない。

これら外国人政策における政府の方針は、外国から来る人々を「人」として認めないという姿勢に貫かれていると言われても仕方のないものである。

「国民共同体」の内側における「統合」と、外との「分断」。
今の日本社会ではその2つが同時進行しており、そのことを如実に示したのが4月1日の2つのニュースであったと私は考えている。

「令和」を「社会的包摂」と言いくるめる欺瞞

ところが、「統合」と「分断」が進んでいるという私の時代認識とは逆に、日本社会では「包摂」が進んでいると主張している人がいる。
社会活動家で、今春、東京大学特任教授に就任した湯浅誠である。

湯浅は、4月3日に発表した「新元号『令和』 私の受け止め」という文章の中で、安倍首相の記者会見談話を引きながら、「新元号『令和』に込められた想いは、2度の政権交代を経ても繰り返し唱えられてきた日本社会の理想を、元号という形に、さらに高めたものだと言えるように思う」という評価を披露している。

新元号「令和」 私の受け止め(湯浅誠) – Y!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/byline/yuasamakoto/20190403-00120722/

ちなみに私は湯浅とは二十数年来の付き合いで、生活困窮者支援のNPOで約10年間、ともに活動を進めてきた仲である。その分、どうしても彼の言説に対する見方が厳しくなってしまうのは、ご容赦いただきたい。

彼は「令和」に込められた思いは、民主党政権下で自分が提唱してきた「ソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)」や、安倍政権の標語である「一億総活躍社会」と同じであると主張し、以下のように述べる。

若くなくても、仮に病気があっても、正規でなくても、日本国籍でなくても、そして男性でなくても、さらには親の介護があったり、子どもが病気がちだったり、地図が読めなかったり、満員電車に乗れなかったりしても、つまり、かつて想定していた「フルスペック」でなくても、その人なりの最大限をその人なりに開花させられるような、社会づくりが必要だ。

ここで、「日本国籍でなくても」という言葉がするりと入り込んでいるのが、この文章のミソである。
湯浅や私を含む社会活動家が主張してきた「社会的包摂」は、外国籍住民も社会の一員として尊重され、人権が保障されることを当然、含んだ理念である。

だが、新元号発表の安倍首相談話のどこに外国籍住民が包摂されているのだろうか。
そこで繰り返し語られているのは、「日本国民統合」の物語である。

湯浅は、「令和」=「一億総活躍社会」=「社会的包摂」(つまり、自分が主張してきたこと)という図式を作ろうとしているようだが、そもそも安倍政権の標語である「一億総活躍社会」も、多くの人が指摘しているように「社会的包摂」とは全く別物である。

「活躍」をすることを求められる社会は、誰もが排除されず、全ての人の人権が保障される社会とは違う。それは、「一億総活躍社会」を推進している安倍政権において、生活保護基準の引き下げ等、生存権保障の後退が行われてきたという事実によっても証明されている。

本来、「社会的包摂」とは、その対義語である「社会的排除」と闘うという意味が込められた言葉である。

たとえ政治家が包摂をイメージさせるような「きれいごと」を言おうとも、その内実が伴っているのか、問い質すのが「社会的包摂」を実現しようとする者の務めである。

湯浅のこの文章は、外国人を「人」として認めず、「人材」としてしか扱っていない日本の現実を覆い隠すものでしかない。

「社会活動家」の役割とは何か?

「万葉集」には、こんな内容の歌もある。

世界は広いとみんなは言うけれど、私にとっては狭くなってしまったのだろうか。太陽や月は等しく恵みを与えてくれると言うけれど、私のためには照ってはくれないのだろうか。他の人もみんなそうなのだろうか。それとも私だけなのだろうか。

これは山上憶良の「貧窮問答歌」の一部を現代語訳したものである。
奈良時代の農民の貧窮ぶりと苛酷な税の取り立てを写実的に描いたことで知られる歌だが、貧困状態にある人の心情を歌ったものとしては、2019年の日本の現実とも通じるものがあると私は考えている。

「令和の宴」の陰で、自分にとっての世界は「狭い」と感じている人が国内にはたくさんいる。

例えば、

最低賃金以下で働かされ、労災の補償も得られない外国人労働者。
天皇代替わりに伴うゴールデンウィークの10連休の影響で仕事が減り、路上生活へと追い込まれていく「ネットカフェ難民」。
来年に迫った東京オリンピック・パラリンピックに関連する工事で、公園を追い出される路上生活者。

工事によって路上生活者のテントが排除された公園(東京都内にて)

「統合」と「分断」の時代における「社会活動家」の役割とは何だろうか。
政治家が「きれいごと」を言う時に、その言葉から誰が排除されているのか、見抜き、本来あるべき理念に基づき、追及すること。
梅の花を見る宴に混ぜてくれと言うのではなく、宴に入れてもらえない人々のもとに出向き、声を聴くこと。
政府に忖度をせず、現代の「貧窮問答歌」を詠み上げること。

それが私たち「社会活動家」の役割だと、私は思う。


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